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JUGEMテーマ:「幼児」と「英語教育」(「早期教育」「早期英語教育」などについて) 
日本で5年生になる頃に合わせて、私と弟は両親より先に日本に帰国することになった。
アメリカ生活の一年目に一緒に渡米していた祖母の家にしばらく身を寄せることになった。

 
五年が経過し、アメリカの生活にすっかり馴染み、毎日を楽しく満喫していた私達が、今度は日本の学校や社会に適応できなくなるのを両親が心配したからだ。
学校や家の外ではもちろん英語で会話していたが、家では、両親は日本語で会話するが、姉弟は英語で会話したり返事するといった具合になっていた。
「お風呂に沈んでくるね。」
などと可笑しな日本語を話すようになっていたそうである。

アメリカにいる間の日本語教育の方は、母が担当していた。
日本から、学年に合わせて国語の教科書を取り寄せ、週末は教科書の音読と母手製のプリントを使って国語の勉強を続けていた。
平日は、母も仕事をしていたので、週末や夏休みなどの長期休暇を利用して勉強を続けていた。
その他に、時折、ニューヨークまで出掛けては、当時珍しかった日本の書店に足を運び、私達が興味を持ちそうな本や漫画を買ってもらっていた。
勉強の量としては、足りていなかったのだろうと思う。
日本に帰国する事が決まった小学4年生の時に、初めて自分の名前を漢字で書くことを教えられた。
「 斉田恵理子 」それまではずっとひらがなで「さいだえりこ」と書いていた。

そんな私が、5年生から日本の小学校の勉強について行く事が容易ではなかった事は、皆さんにも想像がつくでしょう。

子供の転校や生活を整える為に、いっしょに一時帰国した父が先ずしたことは、私の塾と家庭教師と、習い続けていたバイオリンの先生を決めることだった。
まだ、小学2年生だった弟は、父のターゲットから外れた。
私のことが一番の心配だったのだろう。
週に3回の塾通いと、週1回の家庭教師とバイオリンのお稽古。
週7日のうち5日の習い事がある生活は、アメリカで毎日放課後は自由に遊んで過ごしていた私に長く耐えられるはずがなかった。
すぐに、家庭教師だけはやめてもらうようにお願いした。

学校では、アメリカよりも進度の早い算数の授業についていけず、国語力のなさから文章題で苦しんだ。
しばらくの間は、毎晩遅くまで国語の漢字の勉強に時間を取られ、国語辞典と漢和辞典とにらめっこしていたのを覚えている。

日本語は話せたものの、日本の学校では再びカルチャーショックを受け、日本の文化や習慣がとても新鮮だった。
アメリカで体験した事を再び日本でも体験する事になった。

その後、順調に勉強の遅れは取り戻していった。
今でも、数学に苦手意識があるのは否めないけれど。

日本では公立小学校、中学校、高校と進み、英語の勉強は、特別に力を入れて続けていたわけではない。

幼児期に学んだことは、身に付いて簡単には忘れない。
自転車の乗り方を体が忘れないのと同じである。

普段していた事は、洋画などの英語のテレビを見ること、洋書を読むこと、そして、英語で話せる相手を見つけて会話することだった。


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